友だちの嫌なところばかり見えるときに考えるべきこと




突然ですが、僕はバンド活動をしています。

バンドメンバーは職場の先輩ですが、ここでは便宜上「友達」と呼ぶことにします。事実、友達のように仲がよい。

しかし、最近なぜだか、友達の嫌なところばかりを見てしまう。

バンドを2人きりで立ち上げたときには気にならなかったような些細な言動にイライラすることがある。

みんなも、同じような経験をしたことがあるのではないでしょうか?

友達を例に挙げましたが、男女関係でもありがちな話ですね。「付き合う前は気にならなかったことが、付き合ってから許せなくなった」という経験、ありませんか?

そんなことで悩んでいたとき、一冊の本が僕にヒントをくれました。

今回は、そんなお話です。




 『嫌われる勇気』

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

ヒントをくれた本は、こちらの本でした。

いまさら説明するのがばかばかしいくらい有名な本ですね。

いわゆる「自己啓発」系の本のなかで、ここ数年もっとも売れている一冊でしょう。

つい最近、何気なくこの本を読み返していると、ハッとする記述がありました。引用します(赤字は僕がつけたもの)。

哲人「たとえば仮に、あなたがAという人物のことを嫌っているとしましょう。なぜなら、Aさんには許しがたい欠点があるからだ、と。」

青年「ふふふ、嫌いな人間でしたら、何人でも候補が浮かびますよ」

哲人「しかしそれは、Aさんの欠点が許せないから嫌っているのではありません。あなたには「Aさんのことを嫌いになる」という目的が先にあって、その目的にかなった欠点をあとから見つけ出しているのです。」

青年「そんな馬鹿な!なんのために!?」

哲人「Aさんとの対人関係を回避するためです。」

アドラー心理学の中心的な考え方である「目的論」を説明するために書かれたこの記述は、僕と友達の関係を見事に見抜いていました。

友達を嫌いになる「目的」

好きなことにまで見返りを求めてしまうのは悪いことだろうか 」というエントリーで触れましたが、僕は最近バンド活動に対するモチベーションが落ちている。

理由はいろいろあるので、このエントリーで詳しくは触れませんが、とにかく、「バンドをやめたい」という気持ちが僕のなかのどこかに眠っていることだけは確かだ。

それからなのだ。そう、友達の嫌なところばかりが目に付くようになったのは、それからだったのだ。つまり、「バンドをやめたい」と心の片隅で思い始めてからだ。

この本を読み返すまで、僕はこう思っていた。すなわち、「友達が嫌なやつになったから、バンド活動に対するモチベーションが落ちたのだ」、と。

一見、至極まっとうな流れに見えるが、これは「嘘」だ。真実は、「バンド活動をやめたいと思ったから、友達を嫌なやつとして見るようになった」のだ。思い当たる節は、いくらでもある。

そう、「バンド活動をやめたい」という「目的」が先にあったのだ。

しかし、簡単にやめることはできない。なぜなら、バンド活動をやめるということは、ある種、それを通じて得られた人間関係を断ち切ることを意味するからだ。

だから、友達を言い訳に使ったのだ。悪役に仕立て上げたのだ。

「友達が嫌なやつだから、バンド活動をやめたくなるのは当然なのだ。仕方がないことなのだ」という風に仕立て上げたのだ。

それならば、辞めることが容易くなるだろう。

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友達はおそらく何も変わっていない。

変わったのは僕が友達を見る目であって、友達そのものではなかったのだ。

冷静に考えれば当たりまえのことだ。同じ人間の人格がたかが数日の間に激変することなど、そうそうないのだから。

友達の嫌なところばかり見えるときに考えるべきこと

僕はこの本を読んで、友達の嫌なところばかり見えてしまうときにまず考えるべきことは、その友達を嫌う「目的」を考えることだと思うようになった。決して、「原因」ではない。

友達ではなく、恋人の例を出そう。

ある日を境に、急に彼氏のことを「嫌なやつだ」と感じるようになったとしよう。

きみはその「原因」を、「あの日の喧嘩」にあると考えるかもしれない。十分ありえる話だろう。しかし、「原因」のほかに、「目的」があることから目を逸らしてはいけない(「原因」のまえに、と断言していいものかどうか僕にはわからない)。

おそらくそこには、「彼氏と距離を置きたい」という「目的」が眠っている。

もっと言うと、認めたくないだけで、「別れたい」という「目的」が眠っているのかもしれないのだ。

「喧嘩が原因で彼氏のことを嫌いになったと考えても、別れたいから彼氏のことを嫌いになったと考えても、結局は同じことでしょう?」と思うかもしれない。確かに、そうだ。

それに、現実的には、何でもかんでも「目的」ありきで考えることがふさわしくない場面があることだろう。

しかし、「目的」ありきで考えたほうが「自分の本当の気持ち」に気づける場合があることも確かなのだ。考え方というのは、いくら持っておいても損はない。

僕の例で言うと、「バンドをやめたいから、友達を嫌いになった」という真実に気づいたおかげで、少なくとも「友達を嫌っている」気持ちは一時的なもので、不当なものだということに気づけたのだ。

もちろん、「バンドをやめたい」という気持ち自体に決着がついたわけではない。

しかし、バンドを続けるにしろ辞めるにしろ、「友達が嫌なやつに見える」という「嘘」は解決したわけだ。そして、僕はそのことをとても良かったと思っている。

まとめ

今回は友達関係に焦点を当てて記事を書きましたが、この考え方(「目的論」)はいろいろな場面に応用が効きます。

「目的論」を含め、『嫌われる勇気』に書かれている内容を知りたい方は、ぜひ自分で手にとって読んでみましょう。

哲人と青年の対話形式で書かれた本なので、ふだん本を読まない人でもすらすらと読めますよ。僕がまさしくそうでした。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

おわり。

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2 件のコメント

  • 私のような昭和なおっさんは「都合が先、理屈は後」って言葉を使います。自分の脳が自分の都合よくウソをつき、隠すことを”自己救済”と言います。過去ウン十年もアマチュアバンドを続けてきた私(もちろん何度も解散だの脱退だの再結成だの・・)にも多々思い当たる話でとても面白かったです!

  • コメントありがとうございます。”自己救済”ですか。勉強になりました。まさしく今回の話は自己救済の話でしたね。